Written by ART Driven Tokyo
「廃墟」から湧く喜び!「生の舞踏」に招かれたような
著名な美術大学の学長も、日本が世界に誇る美術館の館長も、満面の笑みを浮かべている!まるで、哲学者エーリッヒ・フロムが人間存在のひとつの理想とする「生の舞踏」に参加しているかのように。他者と分かち合うという価値でつながる舞踏会に。
8回目を迎えた2024年の横浜トリエンナーレ「野草:いま、ここで生きてる」の内覧会は、喜びに満ちていた。ショーを観た後も続く、この湧き上がる歓喜はなぜなのだろうか。この地球は、今、争いが絶えず、一見、平穏な豊かな都市でも人々の魂はさすらっているというのに。
今回のトリエンナーレは、戦争や気候変動による災害などで難民キャンプのようになった世界を、廃墟のように表現したという。横浜に出現した「廃墟」から、踊るような生の喜びを感じるのはなぜなのか。
魯迅の「野草」、財を持たない北欧の遊牧民。激動を生き抜くヒント
今回のアーティスティック・ディレクター(AD)は、北京を拠点として国際的に活躍するアーティスト/キュレーターのリウ・ディン(劉鼎)と、美術史家/キュレーターのキャロル・インホワ・ルー(盧迎華)。横浜美術館などを会場に、30以上の国や地域から、93組のアーティストが参加している。
展覧会タイトル「野草」は、日本に留学したこともある中国の小説家・魯迅(ろじん)の散文詩集「野草」(1927年)に拠った。
野草は、その根深からず、花と葉美しからず、しかも露を吸い、水を吸い、死んで久しい人間の血と肉を吸い、おのがじし自分の生存を奪いとる。その生存も、踏みにじられ、刈り荒らされ、ついに死滅して腐朽するまでだが。
だが私は、心うれえず、心たのしい。高らかに笑い、歌をうたおう。
私は私の野草を愛する。だが、野草を装飾とする地を憎む。
-魯迅「野草」より(岩波文庫、竹内好訳)
当局から迫害されながらも、抵抗の文学を貫いた魯迅の、苦難のなかでの逆説的な「喜びの歌」である。激動の時代を生き抜いた、東洋の知の巨星は、野草のように生きた。
リウ・ディンは、日本の取材陣に対し、「今回の展覧会には、生きるためのさまざまな選択肢が示されている」と話した。例えば、北欧の遊牧民、サーミ族の血をひくヨアル・ナンゴの作品だ。人々が憩うための《ものに宿る魂の収穫/Ávnnastit》(2024)。
筆者は、リウ・ディンの話を聞いた後、直ちにその作品のもとへ走った。
神奈川県内で作家が採取した木や竹で作られた仮設テントだ=上の写真。海岸の漂流物のようなものがインテリアのようにして置かれている。作品説明によると、人々が憩うための空間だという。サーミ族は、移動しながら、現地で必要なものだけを採取して住処をつくり、財産を持たない究極のミニマリストだ。
筆者は、質素なテントに、昔、家族と休日を過ごした鎌倉の夜の海岸で感じた風や波の音、星の輝きを感じた。深い静かなやすらぎが体を貫通した気がした。筆者は「資本主義には疲れてしまったよな」と、独りごちた。
この地球に広がってしまった大量消費と所有欲という生活習慣に、現代人は染まっている。市民のニーズ以上のものを生産し、市民は消費に踊る。フロムは、その生活習慣は、かつてヨーロッパが王や貴族によって支配されていた時代の、あるいは19世紀のエリート官僚が権力を握っていた時代の、無知な上流階級・権力者たちの享楽的な快楽と通じるものがある、と指摘した。そんな社会は病んでいる、とも。快楽と「生きる喜び」は違うものだ、とも。
もちろん、産業の発達によって、人々の生活は向上した。しかし、過度の生産・消費の結果、人類が得たものは何だろうか。経済格差や戦争、無限の成長をするために地球環境を濫用したために起こっている環境破壊ではないのか。
ヨアル・ナンゴは、遊牧民としてのサーミ族の価値観を伝えたい、と話している。
横浜美術館の外壁には、サーミ文字で、「彼らは決められた道を行かず、誰かが決めた秩序にも従わない」とのメッセージが書かれている。筆者はそのメッセージから、「わずかなお金で、自由に生きる、という人生の選択肢があってもいいのではないか」と思った。
それはサーミ族にとっては現実の人生なのだ。筆者にできないこともないんじゃないか。そう思うと、魯迅が言う「心たのしい」気持ちがするし、フロムが主催する「生の舞踏会」の招待状が来そうな喜びの予感もしたのだ。
因習からの解放、分かち合い、行動する勇気-人類の可能性を表現
カリフォルニアを拠点とするピッパ・ガーナ―の《ヒトの原型》(2020)=上の写真。
消費社会や、その中で広告が作り出す男女のイメージに生きづらさを感じた経験をもとに、1960年代から先駆的な作品を制作してきた。肌の色の異なる男女の身体のパーツが組み合わされ、性別・人種・年齢といった既成概念にとらわれない多様性のあり方を問いかける(作品説明より)。
フロムによると、家父長制主義という生活習慣も、「生の舞踏」から遠ざかる要因である。人類はまだ発展途上だ。新しい社会を作るためには、中世から引きずっているこの習慣も変えていかなくてはならないだろう。
丹羽良徳《水たまりAを水たまりBに移しかえる》2004年、作家蔵、Courtesy of the Artist=上の写真、右端。
路上の水たまりを、別な水たまりに移し替えるという、不条理な作業の過程を映像作品にした。東京の路上や地下鉄を経由して、国会議事堂前まで、作家が清掃員のような扮装でひたすら清掃を続けていく映像作品も。
国会議事堂前のおびただしい数の警察官たちは、清掃する作家に全く注意を払わない。都市の平穏とはかくもあやういものなのだ、という危機感と同時に、筆者は、「人間とは、かくも自由なものなのか」という感慨に打たれた。権力やら、常識やら、そんなものが通じない人間存在の真理に触れたような気がしたのだ。
横浜美術館の入り口、サーミ族のメッセージの傍らには、ニューヨークを拠点とするパピーズ・パピーズ(ジェイド・グアナロ・クリキ=オリヴォ)の《結界(支柱)》2017年-2024年=上の写真。
空港の出入国審査を思わせる。作家はこう話している。「この迷路のような障害物の列は、飛行機に乗る前ではなく、降りた後のものだと思う。家という名の安心できる場所は、このうちのどれかひとつの角を曲がった先にあるのだが、実際にはたどり着けないような気がする」(作品説明より)。
人間が引いた国境という結界によって、人間は、自分より広い土地を持つ隣人を妬み、自分より多くの財を持つ隣人から奪おうとし、その所有欲からもたらされたのが、現在繰り広げられている戦争だ。
人類は、奪う・所有する快楽にふけり、人間の本性の根底にある、分かち合う喜びを忘れてはいないか。
東京を拠点とするSIDE COREの壁画《big letters, small things》2024年=上の写真 は、「現実は変えられる」という信念に基づいている。
建物に落書きをしてはいけないというルールを逸脱して、権力やルールの隙間を縫い、路上をテーマにした詩や絵をペンキやスプレーで描く(作品説明より)。
難民キャンプと化したこの地球を憂慮するだけでなく、自分なりに能動的に行動し、新しい生き方、新しい社会をつくることは可能ではないだろうか。筆者は、作家が吹き付けるスプレーによって、刻々と変化するこの壁画を見て、そう感じた。
もちろん、筆者が書き連ねた事々は、筆者の価値観であり、他者に押し付けるものではない。また、第8回横浜トリエンナーレが掲げる野草のテーマも、生き方の選択肢を示したものであり、何を選ぶかは個人の自由であろう。
そして、観客はそろって笑っていた。ことに、魯迅に扮した森村泰昌の作品の前で。
作品は、美術館から、みなとみらい駅に向かう途上にあるクイーンズスクエア横浜2Fに大きく淡々と掲げられている。
他者に扮することによって、当該人物の心理に迫る森村は、今回、魯迅に扮して何を思い、何を見つけただろうか。
開催概要
タイトル:第8回横浜トリエンナーレ「野草:いま、ここで⽣きてる」
アーティスティック・ディレクター
リウ・ディン(劉鼎)、キャロル・インホワ・ルー(盧迎華)
会期
2024年3⽉15⽇(⾦)-6⽉9⽇(⽇)
[休場⽇:毎週⽊曜⽇(4⽉4⽇、5⽉2⽇、6⽉6⽇を除く)|開場⽇数:78⽇間]
時間
10:00-18:00(入場は閉場の30分前まで)
6月6日(木)-9日(日)は20:00まで開場
チケット情報はこちら https://www.yokohamatriennale.jp/2024/ticket
18歳以下または高校生以下は無料
会場
横浜美術館(横浜市⻄区みなとみらい3-4-1)
旧第⼀銀⾏横浜⽀店(横浜市中区本町6-50-1)
BankART KAIKO(横浜市中区北仲通5-57-2 KITANAKA BRICK & WHITE 1F)
クイーンズスクエア横浜(横浜市西区みなとみらい2-3クイーンズスクエア横浜2Fクイーンモール)
元町・中華街駅連絡通路(みなとみらい線「元町・中華街駅」中華街・山下公園改札1番出口方面)
主催
横浜市、(公財)横浜市芸術⽂化振興財団、NHK、朝⽇新聞社、横浜トリエンナーレ組織委員会
お問い合わせ
ハローダイヤル 050-5541-8600(9:00-20:00)