ART Driven Tokyo発行人編集長 竹田さをり

Piet Mondrian
Lozenge Composition with Yellow, Black, Blue, Red, and Gray 1921
Gift of Edgar Kaufmann, Jr.

読者から相談:「偏差値のような物差しが欲しい。みんなが認めるアートだけを見たい、買いたいのです」

「価値ある現代アートと、そうでないものと、どうやって見分けるのですか? 基準を教えてください」。

複数の読者から、こんな相談を受けた。この方は、印象派はとても好きで高く評価しているという。「家族で何度も、美術館の行列に並んで鑑賞しました」と話す。フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」にもうっとりするという。この絵を題材とした映画のヒットにより、日本で大人気だ。

しかし、現代アートについてはさっぱり分からない、とおっしゃる。抽象画は、子供の落書きに見えるという。ニュースで「ウォーホルのマリリンが250億円以上で落札された」と知ると、「ウォーホルは価値があるのだな」と考えるという。お金という、だれもが分かるものさしによって。

別の読者もこう依頼してきた。「みんなが『価値がある』と言っているアートだけを見に行きたいし、もし購入するならすでに評価が定まっているものがいいのです。だから、例えば、偏差値のような、だれもが納得するものさしを、基準を、教えてください」

Click her for the article in English.

印象派も最初は異端児だった。「なんだ、これは?」

筆者は頭を抱えた。もし、明確な基準をクリアしなければ優れた作品ではない、ということなら、現代アートは、過去の踏襲にとどまる、ということになるのではないか。デュシャンが便器をアートとして表現したとき、「これは何だ?」と、人々は驚き、当惑し、「美とは何か」について改めて大いに考えた。そんな作品が出現しなくなる、許容されなくなる、ということになるのではないか。

こんな経緯があり、ART Driven Tokyoは、連載「価値あるアートについて考える」をスタートすることにした。敷居が高い、分からない、と言われる現代アート。しかし、クールジャパンを打ち出すなら、やはり、日本は現代アートを得意分野にするほうがいいのではないか。みなさんとともに、考えていきたいのだ。

印象派は、「評価が確立したもの」として、日本でとても人気があるけれど、印象派の画家が登場したころは、彼らは美術界の異端児だった。当時は、保守的なサロンが美術界の動向を左右していた。

そんななか、絵の具のチューブが開発され、スタジオにこもりきりだった画家たちが、屋外で描けるようになった。以前は、現場から戻ってきてからスタジオで風景を再現していたので、当然、風景画には不自然なものが多い。色調も、だいぶ重厚で、茶色く薄暗い。

一方、外で描くと、画家は光に敏感になる。刻々と光の様子は変化するので、早く描かなければならない。だから、印象派の絵画は、明るい色彩で、色の重ね方が迅速だ。当時のサロンの人々は、印象派の作品を見て、「パレットの絵具をぶちまけただけじゃないか。しかも、こんな明るい絵、あっさりしすぎている」と思ったのではないだろうか。ちなみに、印象派が認められるようになったのは、彼らの理解者である商業ギャラリー(アートの展示のみ行う美術館と違い、作品を販売するアートディーラー)が、盛り立ててくれたからである。

印象派も、最初は、「なんだ、これは?」扱いだったのだ。

NYの伝説のギャラリスト:「3つの価値」が大事 人のこころを、本能を揺り動かすもの

では、なんの「基準」もないのだろうか。ニューヨークの伝説的ギャラリストで、1960年代のソーホーのギャラリーのパイオニアであるMichael Findlayの著書「The Value of Art」(Prestel Publishing)には、優れたアートには、「3つの価値」があるとしている。ひとつは、Thaliaで、アーティストの制作技術がしっかりしているかどうか。やはり、技術がしっかりしている作品には、説得力がある。

ふたつめは、Euphrosyneで、これはアートの社会的価値のことだ。なにせ「現代」アートなのだから、社会の動向とは切り離せない。時代背景や社会問題を取り入れ、それらに対する新たな考察や洞察を提供する作品は、高く評価される傾向が強い。また、文化的なアイデンティティやアイデアに対する尊重や反映も重要だ。いま大人気のブラック・アートは、人種問題をテーマにしている。

そして、何よりも大事なものは、ギリシャ神話の三美神の一柱の名前である、Aglaeaだ。Michael Findlayは、この価値を「本質的なもの」と説明している。筆者は、「見る人の心をゆさぶる、人間の本能に訴えかけるもの」と表現したい。

草間彌生は、ギリシャ美神の典雅と優美を持っている

草間彌生さんが好きだ、彼女の展覧会には必ず行く、という人が多いが、草間さんが評価されたのは、彼女が70歳を過ぎてからだ。筆者は、草間さんの作品は、いい意味で、分かりやすいとは言えないと思う。最初は、「なんだ、この水玉は?」「どうして水玉?」と人は驚いたのだ。そして、そこがアメリカで評価された。草間さんの執拗なほどの水玉は、見る人の本能に訴えかけてくる。「なんだ、これは?」。そして、じっと見ている間に、筆者などは「うーん、やっぱり、かわいいなあ」と思い、虜になってしまうのだ。

一方で、価値のないアートは、単なる模倣や既存のアイデアやスタイルの再利用に過ぎないもの、といえるだろう。もし、アートに偏差値のような「基準」があったら、創造性や新しさに欠け、観客に新しい視点や感情(驚き)をもたらさない作品ばかりが登場することだろう。

ここまで読んで、「自分は美術に詳しい」と自認する人たちは、「そんな、簡単に説明できることじゃない。そうじゃない」と言うことだろう。アートは確かにそんな側面を持つ。しかし、このART Driven Tokyoは、現代アートを、広く、わたしたち日本人のなかに、根付かせていくことを理念としている。だから、あえてシンプルに表現していく。

大丈夫、MoMAの学芸員も分かっていなかったから

冒頭に掲載したモンドリアンのLozenge Composition with Yellow, Black, Blue, Red, and Gray 1921をご覧ください。

いつ見ても、ひたすらかっこいいモンドリアン。この作品ではないが、ニューヨーク近代美術館(MoMA)にNew York City I という作品がある。粘着テープを幾何学的に貼り付けたもので、上下がわかりにくく、1940年代に初展示されて以来、ずっと逆さまに展示されていたのだ。MoMAの学芸員でさえ分からなかったのだし、20世紀のアートでもこうなのだから、現代アートというのは、深いのだ。だから筆者は、「分かりたい」と思うのではなく、「感じたい」と思うのだ。

それでも、手がかりを探求する。書いていく

そして、現代アートは「分からない」のを前提に、それでも、手がかりを丹念に探求する記事を、今後も書いていく。

あるとても高名な現代アート作家が、ジャーナリスト向けのセミナーで「自分は、ほかのアーティストの作品を購入するのがとても好きだが、自分がいいと思った人の作品が、市場ではそれほど評価されないことがある」「わたしにも、現代アートは、分からない」と話していた。だから、読者のみなさん、ぜひ気楽に、現代アートを見に行ってほしい。特に、美術館に入る前の、まさに旬の、これから来る作家の作品を紹介している商業ギャラリーに行ってほしい。

いっぱい見てほしい。いっぱい見れば、そのうち、Michael Findlayが言う「3つの価値」に気づくようになるから。